Art, Cusine, Travelなどの日記


by artycrafty
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

バベル(映画)

バベル(Babel)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
アカデミー作曲賞、ゴールデングローブ作品賞、カンヌ監督賞受賞
2006年アメリカ

公開も終盤に差し掛かってきた先日、バベルを見てきました。輝かしい受賞歴と菊池凛子の話題性にも関わらず、巷での評判は批判的なものが多い作品。あまのじゃくな私には面白いかもしれないと期待して行きました。そして期待通り、感動しました。

まずなんといっても俳優陣が上手すぎです。とても演技とは思えない。この人たちの演技を見るだけでも価値がありそうです。菊池凛子だけが注目されていますが、むしろ彼女の演技も霞んでしまうほど他の人たちの演技が凄いと私には思えました。

中でも印象に残ったのはアメリカ人旅行者の妻(ケイト・ブランシェット)、チエコの父(役所広司)、メキシコ人家政婦(アドリアナ・バラッザ)、アメリカ人夫婦の男の子、モロッコ人の兄弟、チエコの親友の聾唖の女の子、メキシコ国境警備の警察官などです。

この映画を見て私がまず感じたのが「リアリティ」であり、彼らの演技はその中核をなすものでした。ストーリーもまた非常にリアルなものに感じました。ドラマではなくドキュメンタリーを見ているような錯覚を覚えたほどです。

「コンテンポラリー」リアリティの中核をなすもう一つの要素としてこの言葉が浮かびます。まさにこの瞬間の世界の一部を切り取ってみせたような映画。美しい東京の夜景。しかし東京こそが混沌としたバベルという言葉が最も似合う風景に思えました。高級高層マンションがベベルの塔の象徴であるという説には納得させられます。

日本でのストーリーには謎が多いように思います。チエコが刑事に渡した手紙、チエコと父との関係などはネット上でも様々な憶測が流れています。このようにいろいろなことが謎や未解決のまま放置されていますが、現実とはそういうものではないでしょうか。また「アメリカ人が見て気分が悪くないように結局アメリカ人は助かるのかよ」という意見を見たこともありますが、モロッコで銃撃された観光客で助かる確率が一番高いのはやはりアメリカ人なのではないでしょうか。

「私は悪いことをしたのではない。ただ少し愚かだっただけだ」これはメキシコ人家政婦が警察で話す一言ですが、まさにその言葉がこの映画の中でとてつもない不幸に見舞われる人々を結びつけるキーワードとなります。不幸の始まりとなる一発の銃弾。それを放ったモロッコの少年の悪意無き愚かさを思うと胸が詰まります。

現実はいつだってそういうものではないでしょうか。悪意無き愚かさがとてつもない不幸を引き起こす。

人間の傲りに神が怒り、塔と共に言語をばらばらにしたという余りにも有名なバベルの塔の逸話。それを題名にした映画の意図は明らかです。文字通りの国による言語の違いや聾唖者とそうでない人の間の意思疎通の困難さだけでなく、同じ言葉を話すもの同士ですら心を通わせることの困難な人間。しかしばらばらになった人間同士を結びつけるのはやはり言葉でしかないのです。

★★★★★
[PR]
# by artycrafty | 2007-06-06 00:58 | Cinema

岡崎市美術博物館

e0081652_23544543.jpg

先日、岡崎市美術博物館に行きました。
岡崎市美術館とは別ですのでご注意を。
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/bihaku/top.html

町中にあるとは思えません。
空が近い丘の上、緑が溢れ、きれいな風が吹いています。
建築家、栗生明による全面ガラス張りのアトリウムには
光が降りそそぎ、眼下には池と緑が広がります。

企画展は「森としての絵画」。
現代日本の19名90作品。
有名どころでは奈良美智など。
残念ながら私は奈良美智が好きではないし
他にも強い感銘を受ける作品はありませんでした。

そんな中で印象に残ったものとしては、
染谷亜里可の、ベルベットを脱色して描いた暗い部屋に浮かび上がる絨毯の絵と
手塚愛子の、織物の縦糸を抜くことでそれを異常に大きく引き延ばし別の物体に変えた作品などです。

日常を別の角度から見ることで非日常を浮かび上がらせるような作品が好きです。

最後の作品はパラモデルさんの、プラレールを使ったもの。
写真をご覧ください。展示場から伸び出したレールが階段を下り池の中まで広がっています。
これはまだ制作中のようで、ボートの前ではプラレール延長作業が続けられていました。
e0081652_23553094.jpg

e0081652_23554684.jpg

[PR]
# by artycrafty | 2007-02-13 23:56 | Art
e0081652_21422663.jpg

「患者が決めた!いい病院ランキング」2007年度版
 オリコン・エンタテイメント社 1680円

 いろいろな疾患別に20万人の患者アンケートから病院をランキングした本だ。結構売れているらしい。
 この手の本を読んでよく分かることは「患者が良い病院を決めることははなはだ難しい」ということだ。専門家の立場から言わせて頂くと「どうしてこの順位なの???」という部分が少なくない。
 確かに名前が挙がっている病院はどれも悪くはないと思う。しかしその順位が妥当かどうかはあやしい。そしてもっと重要なことは、名前が挙がっていない病院でも素晴らしい病院があるという点だ。
 つまり「載っている病院が悪くないという目安にはなるが、載っていない病院が良くないという目安にはならない」ということだ。これはとくに強調しておきたい。
(私は上位に載っちゃっていますが、それはそれで正しいとしてw)
[PR]
# by artycrafty | 2007-01-16 21:49 | Book

ボディントンズ

e0081652_20385651.jpg

藤が丘の酒屋「やまや」に行ってみると、見かけないエールビールがあった。エール好きの私は思わず購入。
Boddingtons Pub Ale 440mL 448円 イギリス
輸入業者のHP
http://www.europubs.com/boddingtons.htm

クリーミーな泡が特徴と書いてある。どうやらドラフト・ギネスが開発した「ウィジェット」を使用した缶のようだ。プルトップを開けるとやはりプジュ!というウィジェット・システムの音がする。

コップに注ぐとあら不思議。まるでホイップクリームのような泡ではないですか。ドラフト・ギネスよりもさらに細かい泡だ。「Good things come to those who ... wait!(幸せは待つものに来る)」などとGuinessの外国版コマーシャルのフレーズを口ずさんでみたりして待つ(*

*)ギネスはコップに注ぐと泡が湧き上がってくるがその間ビールは全体的にベージュ色をしている。白い泡の層と黒いビールの層が完全に分かれてから飲むのがおいしい。だから少し待ちましょう、という主旨のコマーシャルだ。

ギネスよりも短時間で泡の層ができあがる。とてもなめらかな泡だ。肝心のビールはというと、色は薄い琥珀色。エールにしては香りに乏しい。軽い苦みがある。あたかも軽くなったギネスのようだ。ギネスの苦みがイマイチの人にはこちらのほうが美味いかもしれない。アルコール度数は4.7%だが、アルコール感はもっと少ないように感じる。水のようにさらさら飲めてしまう。そして驚くべき事に、30分以上かけて飲んだこのビールの最後の一滴まで、泡の層は無くならなかった。すぐれものだ。

★★★☆☆
[PR]
# by artycrafty | 2007-01-02 20:40 | Beer
芸能人の婚約結婚記者会見で定番の不愉快な質問が今回ももちろんなされた。「お子さんは何人?」ってやつだ。ほとんどセクハラってことに気付いていない芸能記者の頭は骨董品か? それとも気付いていてわざとしてるのか? だとしたら悪質。

紀香は35才。彼女が不妊症である確率は25%とみた。これを25%しかないとみるか、25%もあるとみるかは自由。私は25%「も」派。

賢明な紀香なら年齢による妊娠のし難さは当然知っている。だから記者の質問は可哀相だ。芸能人は失礼な質問をされてもしょうがない職業だとは言うものの。

妊娠はセックスを連想させる。だから大衆はその手の質問が大好きだ。だから記者は失礼にあたらないように子作りの質問をする。だが私に言わせれば、「お子さんは何人欲しいですか?」という質問より「週に何回セックスしたいですか?」と聞く方が、よほど紳士的な質問に思えるのだ。
[PR]
# by artycrafty | 2006-12-27 19:46 | Others

ビル・ヴィオラ展

e0081652_1162030.jpg

e0081652_1164024.jpg


展覧会を観るためだけに名古屋から東京を日帰りする物好きもいないでしょうね。でも名古屋には来ないし、もうじき終わってしまうし。思い立ったが吉日ということで本日行って参りました。

ビル・ヴィオラは1951年ニューヨーク生まれ、ヴィデオ・アートの第一人者です。若かりし頃には故ナムジュンパイクに師事したそうです。1980年代には1年半日本に滞在し禅宗などから多くのインスピレーションを受けました。そういうことからも日本にゆかりのあるアーティストです。

しかし欧米では何度も展覧会をされているのにアジアでは今回が初めてだとのことです。それは一つには日本の美術館の財政的な問題が大きかったのではないかとされています。大きなインスタレーションである彼の作品を展示するには大がかりな仕掛けが必要であり、集客のことも考えなければならないでしょう。実際、今日もヴィオラ展の客は(土曜日だから多い方なのでしょうが)それほど多くはありませんでした。残念ながら隣の展示場で行われていた「福山雅治写真展」の方が多そうでした。今回の展覧会が実現したのは森美術館の財力と、近く退職になる外国人館長の力があったのではないかと言われています。

今回の展覧会は1991年から2004年までの新しい15作品で構成されています。この時期のヴィオラ作品は大きく2つに分類できます。1つは何メートルもの大きさのスクリーンに写し出される神秘的でドラマチックな作品。他の1つは人間の情念をテーマにした古典的な人物画を連想させる比較的小規模な作品です。

前者では、部屋の中央に置かれた巨大な両面スクリーンに炎に包まれる男と水に打たれる男が同時に映し出される「クロッシング」、広く暗い部屋に設置された5つの巨大スクリーンに水から出現する
「天使」を映す幻想的な「ミレニアムの5天使」などが代表的。

後者では、通常の何十倍ものコマ数で撮した人物の表情を何十倍にも引き延ばした時間で再生する(つまり超スローモーションとなる)作品類が代表的。超スローで高感度の映像なので一見すると静止画に見えます。レンブラントの肖像画や情念むき出しで描かれた宗教画のようです。しかしよく見るとそれが動いているので不思議。ハリーポッターに出てくる動く写真とはかくのごとくであろうかと思いました。

ヴィオラ自身も日本の禅や能などから影響を受けたと言っているように(確かに能の動きは超スローモーションですね)それらの作品からは日本的な情緒も感じられますが、やはり欧米人に染みついたキリスト教的なイメージを随所に感じます。人物の映像は古典的な宗教画を想起させられますし、クロッシングやミレニアム天使では十字架の象徴が明らかです。

人物画を思わせる小品以外はほぼ1部屋1作品で、小さな劇場がいくつもあるような造り。基本的にスローモーションの作品なので作品の時間通り見ると相当な時間がかかります(1分の表情を81分まで引き延ばしたものまでありますから)。私はそれぞれの作品を自分が納得できる程度の時間で見て、約2時間でした。

小さいお子さん連れは、お子さんが泣いたり、帰りたいとだだをこねたりで駆け足で通り過ぎて行きました。ほぼ真っ暗で不気味な音がする部屋ばかりなので子供には怖く感じられるでしょう。カップルでも趣味が合わなければ厳しいでしょう。一人で行くのが一番よさそうな展覧会です。

森美術館で1月8日まで行われ、兵庫県立美術館で1月23日から3月21日まで行われるこの展覧会が日本でヴィオラを観られる最後になるかもしれません。そういう意味でも一度ご覧になって損はないと思います。
[PR]
# by artycrafty | 2006-12-17 01:17 | Art

これは王国のかぎ

これは王国のかぎ 荻原規子 理論社

 この小説の主人公は15歳の女子中学生。彼女が失恋を機にファンタジーの世界に入り込み魔神となって活躍するというストーリー。世代的に私に縁があるとは思えないこの物語を読む切っ掛けとなったのは、仕事帰りの車の中でたまたま聞いたNHK-FMの「青春アドベンチャー」というラジオ番組の一コマだった(それ自体世代的におかしいとか言わない!)。それが2000年のころ。感動して本屋に行きすぐに購入しそのまま6年間卓上を飾った。図らずもその間私はハリーだのナルニアだのゲドだのといったファンタジー小説を沢山読むことになった。

 荻原規子は日本のファンタジー作家として有名な方らしい。彼女がこの物語を書くヒントになったのは、マザー・グースの「これはおうこくのかぎ」で始まる歌と、コンサートで聞いたリムスキー・コルサコフの「シェエラザード」であるようだ。彼女はこの不思議な歌の「おうこく」をアラビアンナイトの世界と想像して物語を膨らませた。

 ファンタジー小説では物語の舞台をどこに置くかという点でさまざまなアイデアが見られる。ハリーポッターの活躍する舞台は現代であり、人間社会と平行して存在する魔法社会であり、随所で人間社会との接点が見られ影響し合う。ナルニア国物語では人間社会とは別次元にある世界が舞台で、その世界とは箪笥の奥や、壁に掛けられた絵などで繋がっている。しかし双方の出来事はともに現実であり双方での人間の生死が影響し合う。ゲド戦記は地球とは接点のない世界であり地球との関連は全く見られない。

「これは王国のかぎ」もまたこの点に大いに特徴がありそれは最後のお楽しみでもあるのでここでは書かない。物語の文字通り「かぎ」もそこで明かされる。

 ま、そんな構造的な事はさておき、物語自体素直に楽しめるものとなっている。全能である魔神の不自由さなど奇抜な発想が楽しい。3時間ほどで読めてしまえるので映画を見るような気分で読まれるといい。中学生の淡い恋心など古き良き少女漫画的な描写にはさすがに恥ずかしいものがあるが、それもまた中年を過ぎた身にはファンタジーだと言えなくもない。
 
[PR]
# by artycrafty | 2006-09-30 19:26 | Book
 宮崎吾朗監督作品「ゲド戦記」は原作であるアーシュラ・ル=グウィンの「ゲド戦記」ではありません。また副題の「Tales from Earthsea」はル=グウィンのシリーズでは第6巻の「ゲド戦記外伝」の原題でありますが、映画の方は「ゲド戦記外伝」ですらありません。ゲド戦記シリーズには入れることのできない全く別の物語です。

 アーシュラ・ル=グウィンは試写を見た後、吾朗に感想を尋ねられこう答えたといいます。
 It is not my book. It is your film. It is a good film.
 吾朗はこれを好意的な言葉と受け止め自身のブログに公開しています。
http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000854.html#more
 しかしル=グウィンは吾朗に失礼にならないよう気を付けて発言した非常に批判的な言葉だったようです。このプライベートな発言を吾朗が自身のブログに公開したことに怒りを覚えた彼女は自身のホームページで率直な感想を書きました。
http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html
 日本語訳はここに詳しく書かれています。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse#l0
 このサイトもよく考察されています。
http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2006/08/ursula_k_le_gui.html
 このサイトでは2ch訳が紹介されていて笑えます。
http://blog.livedoor.jp/ahiru178/archives/50563102.html
 これらを読むと、原作者の落胆ぶりが痛いほど伝わってきます。そして私の感想も原作者と同じようなものです。

 私は映画「ゲド戦記」についてはYahoo映画掲示板などで酷評されているのを読んでいました。そしてそれがゲド戦記の第3巻を元に作られているという話も聞いていました。小説「ゲド戦記」の名前は昔から聞いていましたがこれを機に読んでみようと思いました。そしてまず3巻までを読んでから映画館へ行きました。そして全く違う話であることに衝撃を受けました。

 登場人物は(第4巻以降に登場するテルーを除いて)第3巻までに出てきた人たちであり、彼らの語る言葉も小説でなじみのものでした。掲示板で酷評されている「長く意味の分からない台詞」も、小説を読んでいる私には、語る前からその先が分かってしまうほどなじみのあるものでした。ですから映画を観て意味が分からない箇所は一つもなく、とてもシンプルで分かりやすい話だなと思いました。原作を読んでいない人たちが感じる、だらだらと長い単調な進み方すら、小説の雰囲気をよく表しているなと思ったほどです。

 しかし、原作はシンプルでも分かりやすい話でもないのです。宮崎駿がこの作品を試写して「素直だ」と評したのは、原作の複雑さを単純に解釈して映画化したという意味だと私は思いました。

 ジブリファンでゲド嫌いの方達が書かれているような、作画の技術的な面での不満はありませんでした。作画の精密さに関してジブリは「もののけ姫」で頂点に達してしまったのではないか、と思っています。ですからそれ以上に追求することはないでしょう。今回の作品では街や背景は油絵のような描き方でむしろ良いなと思いました。そういった背景美術へのこだわりはパンフレットにも書かれています。

 しかし人物を特徴付ける、ストーリーそのものに関係してくる部分の作画には不満を覚えます。具体的にはテルーです(映画を観た後に小説の残りの3巻を読みました)。彼女の半身は火傷で焼けただれ、顔は醜くなければなりません。それは小説「ゲド戦記」の思想に関係する非常に重要な部分です。

 この映画の最も良くない点はやはりストーリーです。何度も言うようにこれではゲド戦記になりません。それは原作を読んだ人すべてが思うことでしょう。ですからこの映画で最も落胆したのは、わけの分からないストーリーを見せられた原作を読んでいない人達ではないのです。

 原作と違う箇所はあまりに多いのですが、典型的で強烈な例は「アレンの父親殺し」でしょう。原作とは余りにも違いすぎるこの唐突な始まりは、もうそれだけで好意的に映画を見ようとする姿勢を萎えさせるに充分なほどです。

 なぜこのようなエピソードを創作したのかという点についてはいろいろと考察されています。青二才であるアレンは吾朗その人、王様であるアレンの父親は駿であり、恣意的かどうかは分からないが、駿の作り上げたジブリ王国を吾朗が壊すことを象徴しているのだというものも一つの解釈です。

 しかしそれがどんなに意味のある設定であったとしても、原作とはかけ離れた、原作の思想に反する設定にするのは、原作者も言及しているとおり、原作者とその読者への敬意に欠けた失礼なものであることは間違いありません。

 原作「ゲド戦記」は非常に重いテーマを扱っています。人種差別、男女差別は特に重要なテーマの一つです。それらはとても意義のあるテーマですが心地よく読めるような小説には向かないものかもしれません。その文体もハリーポッターのようにすらすら読める物ではありません。私はこの小説を読みながら何度も(悪い意味ではなく)聖書を読んだときと同じような気分を味わいました。わくわくするような冒険活劇は第1巻に多少あるぐらいです。魔法というものを扱いながら魔法の言葉は一度も出てきません。精神的で叙事的な描写の多い小説です。私にはこれがベストセラーであることが不思議に思えるほどでした。

 また、ファンタジー小説の定番である善と悪の戦いも、ゲド戦記では曖昧となり、最後にはひっくり返るというものです。これは第5巻がアメリカ同時多発テロ以降に書かれたものであり、アメリカ人であるル=グウィンが現代における善悪の基準の崩壊を目の当たりにしたことが影響しているとされています。

 このような小説をアニメにして果たして人気の出る作品が作れるのでしょうか。もし作れるとしたらそれは天才の手によるほかないでしょう。ですからル=グウィンも天才と認める駿にのみその仕事を託したかったのでしょう。しかし駿は遂にそれを引き受けなかった。駿ですらそれが可能だとは思えなかったからでしょう。ですから、吾朗がそれをすることを強硬に反対したのでしょう。

 一方、映画「ゲド戦記」は駿の漫画「シュナの旅」からインスピレーションを得たとされています。そこで私は未読であった「シュナの旅」も読んでみました。街の風景や人々の衣服、奴隷制度、主人公の女の子などは確かにこれと瓜二つです。インスピレーションを得たということは間違いないようです。

 映画「ゲド戦記」は「ゲド戦記」ではありません。「Tales of Earthsea」ですらありません。しかしオマージュ作品と言うことはできます。登場人物は同じ名前の別人。時間設定も違います。環境設定も原作ゲド戦記のあちらこちらから拝借してきた物です。例えば湿原に囲まれたテナーの家の風景、そこを尋ねるゲドは、外伝の「湿原で」でメグミを訪ねる魔法使いイリオスという設定にそっくりです。影から逃げ続けるアレンは言うまでもなく第1巻のゲドです(これは父親殺しと同じぐらい冒涜的な改変です)。またシュナの旅ではありませんがそのオマージュだと言うことも差し支えないでしょう。

 映画「ゲド戦記」は「ゲド戦記」という題名であることが最大の欠点です。全く別の人物の名前にして(ああ、ゲド戦記では人物の名前が他のいかなる文学よりも重要な意味を持つというのに!)、別の題名をつけ、副題に「ゲド戦記に捧ぐ」と書けば十分評価されたであろう作品です。この題名にしなければならない理由はただ一つ。金儲けのためであることは明白です(それはアニメ産業にとって最も重要な目的ですが)。

 最後にル=グウィンのゲド戦記外伝(岩波書店)まえがきより著者自身の象徴的な言葉を引用しておきたいと思います。この言葉を宮崎吾朗監督とジブリの関係者にかみしめてもらうことを願いつつ。

「すると、多額の金がそこに注ぎこまれる。需要に供給が追いつくようになる。ファンタジーはひとつの商品となり、ひとつの産業となっていく。商品化されたファンタジーは危険を冒すことはしない。新しい何かを創り出すことはせず、模倣と矮小化に終始する。商品化されたファンタジーは、昔からある物語から知的で倫理的な奥の深さを消し去って、そこに描かれている人間の行為を暴力に変え、登場人物を人形に変え、彼らが語っていた真実のことばを、陳腐な、ありきたりなことばに変えてしまう。ヒーローは剣を、レーザー光線を、はたまた魔法の杖や棒を振りまわし、コンバインが機械的に刈り取りをしていくように、ガッポガッポと金をもうけていく。読む者を根底から揺るがすようなものの考え方はことごとく排除され、作品はひたすらかわいく、安全なものになっていく。すぐれた物語作者たちの、読者の心を熱く揺さぶった発想あるいはものの考え方はまねされ、やがてステレオタイプ化されて、おもちゃにされ、きれいな色のプラスチックにかたどられ、コマーシャルにのせられ、売られ、こわされ、がらくたの仲間入りをさせられ、ほかのものに置き換えたり、取り替えたりされていく。」
[PR]
# by artycrafty | 2006-09-24 20:52 | Art
最近のマスコミは国民の意見を「医師はひどいことをしている」という方向に誘導しようとする記事を多発しているが堀病院関連報道もその一つ。誘導報道である。

しかしマスコミのその思惑がある程度の効果を上げている一方、逆に「産婦人科って大変なんだー」とか「小児科って大変なんだー」とかいう印象が広まりつつあるのも事実。

そういう見方を堀病院関連報道に当てはめると「助産師って足らないんだー」という重大な一つの事実に国民が気付くきっかけになるものとも言えよう。

有識者の中にもいまだに「出生率が減っているから産婦人科医や助産師が減っているのだ」などというトンチンカンな発言をする輩もいる。この程度の見識の人は「お産の減少よりも産婦人科医の減少の方が激しい」という事を知らない。

つまり産婦人科の仕事は増えている、訴訟は増え続けている、だけど給料は他の科と変わらない、だから医学生は産婦人科にならない、高齢化している産婦人科医のリタイアが続出している、少ない産婦人科医や助産師は大都市の大病院に集中する、だから足りないところはますます仕事がきつくなりますます成り手が減る、何とかしてくれー、ということである。

公的な病院ですら産婦人科を閉鎖するところが続出している。生き残った病院は分娩制限を始めている。もはやどこでも産めるという時代ではなくなったのだ……

さて助産師の減少だが、行政の失敗以外のなにものでもない。厚労省が批判的なコメントをしているが、きっとジョークなのだろう。

だからといって無資格診療が認められるものではない。法律が禁止しているのだから。助産師にしか認められない診療を看護師にさせた病院はすべて廃院にすればよい。

そうすればほとんどの日本国民は日本でお産することができなくなる。中国にでも頭を下げてお産させてもらえばよい。または法外なお金を出してアメリカでお産すればよい。一部の特権階級(マスコミ関係者やお役人)のみが、生き残ったわずかな日本の産婦人科で安全で快適なお産をするのだ。それが狙いだったりして。

というのが単なるブラックジョークならいいのですが。
[PR]
# by artycrafty | 2006-08-26 11:58 | Others
e0081652_219075.jpg

【店名】よし川 レトワール・ドゥ・ジェアン
【カテゴリー】フレンチ
【場所】愛知県名古屋市千種区掘割町1-8
【TEL】052-762-0077
【WEB】http://www.yoshikawa-sachie.co.jp/village/letoile/index.html
【定休日】無休
【予算】¥10,000~15,000
【レポート】
「よし川ビレッジ」は名古屋市内にありながら日本料理、懐石料理、イタリア料理、フランス料理の4料理店それぞれの店舗を独立した敷地内に置きつつほぼ一カ所に集めたというユニークな施設である。オーナーの吉川幸枝は宝石を身に纏った姿でしばしばマスコミに登場するというけばけばしいキャラクターで売っている人物だ。日本で初めて「マンション」を建てたという経歴も持つ強者。オーナーのキャラクターが濃すぎて逆に敬遠されてしまうかもしれないこのフレンチレストランは、意外にも控え目な印象を持たせる店であった。

タクシーを降りる時にはもちろん正装のギャルソンが待っていた。予約の旨を伝えると店内に至る小道を案内された。そこは都会の真ん中であることを忘れさせるこんもりとした緑の小道であった。迷路のような道を進むと大理石の彫像の立つ噴水がある。その横を抜けて店内に入った。

店内はフランスの片田舎の民家を思わせる素朴な造り。都会の喧噪を忘れさせる素敵なアプローチに違和感無く溶け込んでいるものの、しかし同クラスの他店舗と比べると内装のチープ感は否めない。

また、店員の気遣いも一流店らしからぬものであった。具体的には、やや早めに到着した私が待っている間、ミネラルウォーターを一度注ぎに来ただけだったのである。私は店内にぽつんと一人寂しく待たされたというわけだ。こういう場合どのようにしたらよいかという決まったマニュアルがあるわけではないであろう。しかしそこは臨機応変、にこやかに世間話でもするとか、あるいは「まだお供の方がいらっしゃっていないようですね。私どもの店では庭に好評を頂いております。お連れ様をお待ちの間お庭に出てみられてはいかがですか?」ぐらいの愛想をする暇はあったろうにと思うわけだ。

料理の方は飛騨牛のステーキなどは特に美味であり一通り合格点を付けられる。しかし新鮮な驚きはなかった。ワインもまずくはないが、ただ注がれるだけで詳しい説明がなかった。またいわゆるお品書きがないのが不満。

もちろん分かり切ったことであるが、食べるだけがレストランの楽しみではない。食べるだけなら吉野家の豚丼で十分である。そういう観点から、ドゥ・ジェアンは(連れの人は庭と料理に高評価であったが)私にとっては同レベルの他店には若干及ばないのである。
[PR]
# by artycrafty | 2006-07-18 21:09 | Gourmet