宮崎吾朗監督作品「ゲド戦記」は原作であるアーシュラ・ル=グウィンの「ゲド戦記」ではありません。また副題の「Tales from Earthsea」はル=グウィンのシリーズでは第6巻の「ゲド戦記外伝」の原題でありますが、映画の方は「ゲド戦記外伝」ですらありません。ゲド戦記シリーズには入れることのできない全く別の物語です。
アーシュラ・ル=グウィンは試写を見た後、吾朗に感想を尋ねられこう答えたといいます。
It is not my book. It is your film. It is a good film.
吾朗はこれを好意的な言葉と受け止め自身のブログに公開しています。
http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000854.html#more
しかしル=グウィンは吾朗に失礼にならないよう気を付けて発言した非常に批判的な言葉だったようです。このプライベートな発言を吾朗が自身のブログに公開したことに怒りを覚えた彼女は自身のホームページで率直な感想を書きました。
http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html
日本語訳はここに詳しく書かれています。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse#l0
このサイトもよく考察されています。
http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2006/08/ursula_k_le_gui.html
このサイトでは2ch訳が紹介されていて笑えます。
http://blog.livedoor.jp/ahiru178/archives/50563102.html
これらを読むと、原作者の落胆ぶりが痛いほど伝わってきます。そして私の感想も原作者と同じようなものです。
私は映画「ゲド戦記」についてはYahoo映画掲示板などで酷評されているのを読んでいました。そしてそれがゲド戦記の第3巻を元に作られているという話も聞いていました。小説「ゲド戦記」の名前は昔から聞いていましたがこれを機に読んでみようと思いました。そしてまず3巻までを読んでから映画館へ行きました。そして全く違う話であることに衝撃を受けました。
登場人物は(第4巻以降に登場するテルーを除いて)第3巻までに出てきた人たちであり、彼らの語る言葉も小説でなじみのものでした。掲示板で酷評されている「長く意味の分からない台詞」も、小説を読んでいる私には、語る前からその先が分かってしまうほどなじみのあるものでした。ですから映画を観て意味が分からない箇所は一つもなく、とてもシンプルで分かりやすい話だなと思いました。原作を読んでいない人たちが感じる、だらだらと長い単調な進み方すら、小説の雰囲気をよく表しているなと思ったほどです。
しかし、原作はシンプルでも分かりやすい話でもないのです。宮崎駿がこの作品を試写して「素直だ」と評したのは、原作の複雑さを単純に解釈して映画化したという意味だと私は思いました。
ジブリファンでゲド嫌いの方達が書かれているような、作画の技術的な面での不満はありませんでした。作画の精密さに関してジブリは「もののけ姫」で頂点に達してしまったのではないか、と思っています。ですからそれ以上に追求することはないでしょう。今回の作品では街や背景は油絵のような描き方でむしろ良いなと思いました。そういった背景美術へのこだわりはパンフレットにも書かれています。
しかし人物を特徴付ける、ストーリーそのものに関係してくる部分の作画には不満を覚えます。具体的にはテルーです(映画を観た後に小説の残りの3巻を読みました)。彼女の半身は火傷で焼けただれ、顔は醜くなければなりません。それは小説「ゲド戦記」の思想に関係する非常に重要な部分です。
この映画の最も良くない点はやはりストーリーです。何度も言うようにこれではゲド戦記になりません。それは原作を読んだ人すべてが思うことでしょう。ですからこの映画で最も落胆したのは、わけの分からないストーリーを見せられた原作を読んでいない人達ではないのです。
原作と違う箇所はあまりに多いのですが、典型的で強烈な例は「アレンの父親殺し」でしょう。原作とは余りにも違いすぎるこの唐突な始まりは、もうそれだけで好意的に映画を見ようとする姿勢を萎えさせるに充分なほどです。
なぜこのようなエピソードを創作したのかという点についてはいろいろと考察されています。青二才であるアレンは吾朗その人、王様であるアレンの父親は駿であり、恣意的かどうかは分からないが、駿の作り上げたジブリ王国を吾朗が壊すことを象徴しているのだというものも一つの解釈です。
しかしそれがどんなに意味のある設定であったとしても、原作とはかけ離れた、原作の思想に反する設定にするのは、原作者も言及しているとおり、原作者とその読者への敬意に欠けた失礼なものであることは間違いありません。
原作「ゲド戦記」は非常に重いテーマを扱っています。人種差別、男女差別は特に重要なテーマの一つです。それらはとても意義のあるテーマですが心地よく読めるような小説には向かないものかもしれません。その文体もハリーポッターのようにすらすら読める物ではありません。私はこの小説を読みながら何度も(悪い意味ではなく)聖書を読んだときと同じような気分を味わいました。わくわくするような冒険活劇は第1巻に多少あるぐらいです。魔法というものを扱いながら魔法の言葉は一度も出てきません。精神的で叙事的な描写の多い小説です。私にはこれがベストセラーであることが不思議に思えるほどでした。
また、ファンタジー小説の定番である善と悪の戦いも、ゲド戦記では曖昧となり、最後にはひっくり返るというものです。これは第5巻がアメリカ同時多発テロ以降に書かれたものであり、アメリカ人であるル=グウィンが現代における善悪の基準の崩壊を目の当たりにしたことが影響しているとされています。
このような小説をアニメにして果たして人気の出る作品が作れるのでしょうか。もし作れるとしたらそれは天才の手によるほかないでしょう。ですからル=グウィンも天才と認める駿にのみその仕事を託したかったのでしょう。しかし駿は遂にそれを引き受けなかった。駿ですらそれが可能だとは思えなかったからでしょう。ですから、吾朗がそれをすることを強硬に反対したのでしょう。
一方、映画「ゲド戦記」は駿の漫画「シュナの旅」からインスピレーションを得たとされています。そこで私は未読であった「シュナの旅」も読んでみました。街の風景や人々の衣服、奴隷制度、主人公の女の子などは確かにこれと瓜二つです。インスピレーションを得たということは間違いないようです。
映画「ゲド戦記」は「ゲド戦記」ではありません。「Tales of Earthsea」ですらありません。しかしオマージュ作品と言うことはできます。登場人物は同じ名前の別人。時間設定も違います。環境設定も原作ゲド戦記のあちらこちらから拝借してきた物です。例えば湿原に囲まれたテナーの家の風景、そこを尋ねるゲドは、外伝の「湿原で」でメグミを訪ねる魔法使いイリオスという設定にそっくりです。影から逃げ続けるアレンは言うまでもなく第1巻のゲドです(これは父親殺しと同じぐらい冒涜的な改変です)。またシュナの旅ではありませんがそのオマージュだと言うことも差し支えないでしょう。
映画「ゲド戦記」は「ゲド戦記」という題名であることが最大の欠点です。全く別の人物の名前にして(ああ、ゲド戦記では人物の名前が他のいかなる文学よりも重要な意味を持つというのに!)、別の題名をつけ、副題に「ゲド戦記に捧ぐ」と書けば十分評価されたであろう作品です。この題名にしなければならない理由はただ一つ。金儲けのためであることは明白です(それはアニメ産業にとって最も重要な目的ですが)。
最後にル=グウィンのゲド戦記外伝(岩波書店)まえがきより著者自身の象徴的な言葉を引用しておきたいと思います。この言葉を宮崎吾朗監督とジブリの関係者にかみしめてもらうことを願いつつ。
「すると、多額の金がそこに注ぎこまれる。需要に供給が追いつくようになる。ファンタジーはひとつの商品となり、ひとつの産業となっていく。商品化されたファンタジーは危険を冒すことはしない。新しい何かを創り出すことはせず、模倣と矮小化に終始する。商品化されたファンタジーは、昔からある物語から知的で倫理的な奥の深さを消し去って、そこに描かれている人間の行為を暴力に変え、登場人物を人形に変え、彼らが語っていた真実のことばを、陳腐な、ありきたりなことばに変えてしまう。ヒーローは剣を、レーザー光線を、はたまた魔法の杖や棒を振りまわし、コンバインが機械的に刈り取りをしていくように、ガッポガッポと金をもうけていく。読む者を根底から揺るがすようなものの考え方はことごとく排除され、作品はひたすらかわいく、安全なものになっていく。すぐれた物語作者たちの、読者の心を熱く揺さぶった発想あるいはものの考え方はまねされ、やがてステレオタイプ化されて、おもちゃにされ、きれいな色のプラスチックにかたどられ、コマーシャルにのせられ、売られ、こわされ、がらくたの仲間入りをさせられ、ほかのものに置き換えたり、取り替えたりされていく。」